2005年 07月 20日
#21 ゼータの鼓動 |
宇宙に戻ってきたカミーユは、ブライトが指揮するアーガマに復帰する。地球での経験で自信をつけたカミーユだったが、アーガマで会えると思っていたファ・ユイリィがいないことに苛立っていた。
「地球で恋をしてきたんでしょう?」
そんなカミーユの変化を注意深く観察していたがエマは彼を諭そうとするが、当然のようにここで素直に聞くカミーユじゃない。「あんたは俺の姉さんじゃないだろう」と反発するだけだ。
一方、ティターンズでは新造戦艦ドゴス・ギアを与えられたシロッコが、月を制圧する「アポロ作戦」を発動させようとしていた。そして、シロッコの部隊に配属されていたジェリドは新恋人のマウアーと共に、新型モビルスーツ・ガブスレイでアーガマに仕掛ける。
迎撃に出るカミーユのガンダムマークⅡとエマのリック・ディアス。しかしジェリドの猛攻の前にエマ機は大破、カミーユのマークⅡも窮地に陥る。万事休す、と思われたそのとき、閃光一閃、味方の援軍がジェリドを退ける。アポリーが、そしてファが運んできたエゥーゴの新型モビルスーツ「ゼータガンダム」の威力に、アーガマは救われたのだ。そして、カミーユはやっと再会できたファと抱擁を交わす。
▼解説
ホンコン編を終えて、舞台が再び宇宙に戻る21話。ここからしばらく「ゼータガンダム」は主にカミーユとファ、それにカツを加えたアーガマのハイティーン組の姿をメインに描いていくことになる。
まずカミーユは地球、特にホンコンでのフォウとの強烈な体験をモロに引きずっている。フォウとの壮絶な別離の反動で妙にファを恋しがったり(21話)、「心、ここにあらず」といった感じで浮ついていたりする。ファはというと、カミーユが宇宙に行っている間になんとパイロット候補生として訓練していたようで「ティターンズを放ってはおけない」としっかり党派に洗脳されている(笑)。たぶん、根底にはカミーユに置いてけぼりにされたくないという焦りもあったのだろう。最後のカツだが、彼はアムロとシャア、一年戦争の二大英雄に宇宙に連れ出されたことで完全に舞い上がっている状態だ。自分の実力も省みず、すっかり主役気分の彼はその後トラブルメーカーになっていく。
簡単な話だが、アーガマの10代たちというのは要するに当時のファンの中核にいた若い世代のことだ。だから「ゼータガンダム」というのは「不安定な若い連中はイタすぎる」という現実を突きつける作品でもあった。なら、当時のファンに嫌われるのも道理だ。だが、「それだけ」で終わらないのが「ゼータガンダム」だ。そう、これまでも指摘してきたように「イタい子供たち」を導くはずの「大人たち」もどうしようもない、というのがこの作品のポイントなのだ。この点に関しては、22話の解説で詳しく見ていこう。
それにしても「ゼータガンダム」ではとにかく大人たちには子供を諭す余裕も力もなく、子供たちは跳ね上がるばかりで聴く耳を持たない。だから登場人物がみんなイライラしっぱなしだ。
例えば、この21話でエマの窮地を救おうとするカミーユの台詞は「パイロットの養成には、お金がかかるんです!」だ(笑)。エマはエマで「助けてくれるのは、後でいい!」と強がっているし、執拗にコミュニケーションの「きしみ」が描かれる。ここは85年の放映当時もっとも嫌われた点のひとつだが、今、この作品を見返している我々が注目すべきはむしろこの「きしみ」だ。
「ゼータガンダム」は「自意識過剰の90年代」を予見した作品である。事実、90年代に世界は「ゼータガンダム」そっくりになった。しかし逆にこの90年代には、その時代を映し取る鏡としての物語からどんどんこの「きしみ」が排除されていったことに注目したい。と、いうよりもこの「ゼータガンダム」のようにリアルに、それも徹底してこの「きしみ」を描いた作品が90年代にあっただろうか。これをシニカルな態度だと断罪するのは簡単だ。だが、21世紀にあえてこの作品を見返すときに大事なのは、この「きしみ」からどうしてみんな目をそらしたかったのか、目をそらすことで何がもたらされたのかを考えることだと思う。「絶望から出発しよう」という気分は根強い人気があるが、だったらまず徹底して絶望しなきゃいけない。まあ、本当に「絶望から出発」する必要があるかどうか、という問題が実は一番大きいのだが。
「地球で恋をしてきたんでしょう?」
そんなカミーユの変化を注意深く観察していたがエマは彼を諭そうとするが、当然のようにここで素直に聞くカミーユじゃない。「あんたは俺の姉さんじゃないだろう」と反発するだけだ。
一方、ティターンズでは新造戦艦ドゴス・ギアを与えられたシロッコが、月を制圧する「アポロ作戦」を発動させようとしていた。そして、シロッコの部隊に配属されていたジェリドは新恋人のマウアーと共に、新型モビルスーツ・ガブスレイでアーガマに仕掛ける。
迎撃に出るカミーユのガンダムマークⅡとエマのリック・ディアス。しかしジェリドの猛攻の前にエマ機は大破、カミーユのマークⅡも窮地に陥る。万事休す、と思われたそのとき、閃光一閃、味方の援軍がジェリドを退ける。アポリーが、そしてファが運んできたエゥーゴの新型モビルスーツ「ゼータガンダム」の威力に、アーガマは救われたのだ。そして、カミーユはやっと再会できたファと抱擁を交わす。
▼解説
ホンコン編を終えて、舞台が再び宇宙に戻る21話。ここからしばらく「ゼータガンダム」は主にカミーユとファ、それにカツを加えたアーガマのハイティーン組の姿をメインに描いていくことになる。
まずカミーユは地球、特にホンコンでのフォウとの強烈な体験をモロに引きずっている。フォウとの壮絶な別離の反動で妙にファを恋しがったり(21話)、「心、ここにあらず」といった感じで浮ついていたりする。ファはというと、カミーユが宇宙に行っている間になんとパイロット候補生として訓練していたようで「ティターンズを放ってはおけない」としっかり党派に洗脳されている(笑)。たぶん、根底にはカミーユに置いてけぼりにされたくないという焦りもあったのだろう。最後のカツだが、彼はアムロとシャア、一年戦争の二大英雄に宇宙に連れ出されたことで完全に舞い上がっている状態だ。自分の実力も省みず、すっかり主役気分の彼はその後トラブルメーカーになっていく。
簡単な話だが、アーガマの10代たちというのは要するに当時のファンの中核にいた若い世代のことだ。だから「ゼータガンダム」というのは「不安定な若い連中はイタすぎる」という現実を突きつける作品でもあった。なら、当時のファンに嫌われるのも道理だ。だが、「それだけ」で終わらないのが「ゼータガンダム」だ。そう、これまでも指摘してきたように「イタい子供たち」を導くはずの「大人たち」もどうしようもない、というのがこの作品のポイントなのだ。この点に関しては、22話の解説で詳しく見ていこう。
それにしても「ゼータガンダム」ではとにかく大人たちには子供を諭す余裕も力もなく、子供たちは跳ね上がるばかりで聴く耳を持たない。だから登場人物がみんなイライラしっぱなしだ。
例えば、この21話でエマの窮地を救おうとするカミーユの台詞は「パイロットの養成には、お金がかかるんです!」だ(笑)。エマはエマで「助けてくれるのは、後でいい!」と強がっているし、執拗にコミュニケーションの「きしみ」が描かれる。ここは85年の放映当時もっとも嫌われた点のひとつだが、今、この作品を見返している我々が注目すべきはむしろこの「きしみ」だ。
「ゼータガンダム」は「自意識過剰の90年代」を予見した作品である。事実、90年代に世界は「ゼータガンダム」そっくりになった。しかし逆にこの90年代には、その時代を映し取る鏡としての物語からどんどんこの「きしみ」が排除されていったことに注目したい。と、いうよりもこの「ゼータガンダム」のようにリアルに、それも徹底してこの「きしみ」を描いた作品が90年代にあっただろうか。これをシニカルな態度だと断罪するのは簡単だ。だが、21世紀にあえてこの作品を見返すときに大事なのは、この「きしみ」からどうしてみんな目をそらしたかったのか、目をそらすことで何がもたらされたのかを考えることだと思う。「絶望から出発しよう」という気分は根強い人気があるが、だったらまず徹底して絶望しなきゃいけない。まあ、本当に「絶望から出発」する必要があるかどうか、という問題が実は一番大きいのだが。
by zgundam2nd
| 2005-07-20 01:16