2005年 08月 10日
#35 キリマンジャロの嵐 |
なんとかドック艦ラビアンローズまで逃げ延びて、修理と補給を受けたアーガマは、カラバの作戦を支援するために再出撃する。目標はティターンズ・キリマンジャロ基地だ。衛星軌道上で、アーガマを追ってきたヤザン隊の攻撃を受けるも、カミーユのΖガンダムとシャアの百式はキリマンジャロに降下する。
偶然、基地の水源を発見したカミーユとシャアはキリマンジャロ基地に潜入。そこでなんとティターンズの首魁ジャミトフ・ハイマンに遭遇。シャアは迷わずジャミトフを殺そうとするが、あと一歩のところで失敗する。さらに、カミーユはホンコン以来生死不明になっていたフォウに再会する。夢中で話しかけるカミーユだが、フォウの記憶は調整され、彼女はカミーユのことを覚えていなかった。
そして、カミーユの制止を振り切り、フォウはサイコガンダムを起動させる。辛くも基地を脱出したシャアとカミーユは、カラバの一員として攻撃に参加するアムロに助けられる。
▼解説
やたらと「偶然」の再会が連発されることで有名な35話(笑)。「ゼータガンダム」というのは「わかっているけど、できない」というイライラ感(これが「現実認知」の大きな部分を負っている)に溢れた作品なのだが、この35話は特にその傾向が強い。レコアのことでシャアを恨むのは筋違いだとわかっていても素直になれないカミーユ、カミーユとフォウの関係が悲劇しか生まないことを知りながら止められないシャア。そして、そんなシャアを責めながら、自分もまたカミーユを止められないアムロ……。この気分は結局最終回まで引きずられ、ふたつの結末を迎える。それは逃亡(シャア)と破綻(カミーユ)だ。
当時のアニメ誌等に載った資料やインタビュー、そして富野監督自らが作詞した前期主題歌『Ζ・刻をこえて』の歌詞などから考えて、たぶん『ゼータガンダム』は、最近大流行の「アイロニーの果てのロマン」(by北田暁大)を狙っていた作品だと思う。「今は動けない/それが運命(さだめ)だけど/あきらめはしない/もう目覚めたから」という前期主題歌の歌詞は、端的にその立ち位置を表している。だが、「ゼータガンダム」はご存知のように、「果てのロマン」を描くことなく完結した。そして、だからこそ今日でもその物語の呪縛は有効なのだ。何故か? それは現在のこの国の文化空間には「果て」に達することもなく大袈裟に語られる安易なロマンに溢れているからだ。皮肉な話だが、「ゼータガンダム」は富野監督の目論通りに行かなかったからこそ、得がたい作品となり得たのだ。
偶然、基地の水源を発見したカミーユとシャアはキリマンジャロ基地に潜入。そこでなんとティターンズの首魁ジャミトフ・ハイマンに遭遇。シャアは迷わずジャミトフを殺そうとするが、あと一歩のところで失敗する。さらに、カミーユはホンコン以来生死不明になっていたフォウに再会する。夢中で話しかけるカミーユだが、フォウの記憶は調整され、彼女はカミーユのことを覚えていなかった。
そして、カミーユの制止を振り切り、フォウはサイコガンダムを起動させる。辛くも基地を脱出したシャアとカミーユは、カラバの一員として攻撃に参加するアムロに助けられる。
▼解説
やたらと「偶然」の再会が連発されることで有名な35話(笑)。「ゼータガンダム」というのは「わかっているけど、できない」というイライラ感(これが「現実認知」の大きな部分を負っている)に溢れた作品なのだが、この35話は特にその傾向が強い。レコアのことでシャアを恨むのは筋違いだとわかっていても素直になれないカミーユ、カミーユとフォウの関係が悲劇しか生まないことを知りながら止められないシャア。そして、そんなシャアを責めながら、自分もまたカミーユを止められないアムロ……。この気分は結局最終回まで引きずられ、ふたつの結末を迎える。それは逃亡(シャア)と破綻(カミーユ)だ。
当時のアニメ誌等に載った資料やインタビュー、そして富野監督自らが作詞した前期主題歌『Ζ・刻をこえて』の歌詞などから考えて、たぶん『ゼータガンダム』は、最近大流行の「アイロニーの果てのロマン」(by北田暁大)を狙っていた作品だと思う。「今は動けない/それが運命(さだめ)だけど/あきらめはしない/もう目覚めたから」という前期主題歌の歌詞は、端的にその立ち位置を表している。だが、「ゼータガンダム」はご存知のように、「果てのロマン」を描くことなく完結した。そして、だからこそ今日でもその物語の呪縛は有効なのだ。何故か? それは現在のこの国の文化空間には「果て」に達することもなく大袈裟に語られる安易なロマンに溢れているからだ。皮肉な話だが、「ゼータガンダム」は富野監督の目論通りに行かなかったからこそ、得がたい作品となり得たのだ。
by zgundam2nd
| 2005-08-10 02:17