2005年 06月 26日
#0 「ゼータガンダム」を観る前に |
「ゼータガンダム」を最初に観たとき、暗い話だなと思った。出てくる人間がみんな後ろ向きで、何かに焦っていて、とにかく観ていてイライラする話だった。
『機動戦士Ζガンダム』は決して出来のいい作品ではない。まず、全体的に説明不足で、副読本抜きでは話の基本的な設定がまったく飲み込めない。脚本や演出も正直ミスが多い。けれど、あれから信じられないくらいの時間が流れた今、ときどきふとこのお世辞にも出来がいいとはいえないフィルムを見返して、そのどうしようもなく救いのない物語に、触れたくなることがある。あの頃、時代は浮かれていた。1985年、時代はどこまでも加速していくはずだった。そんな中でほとんどたったひとり、その行きつく先の袋小路を予見していたのが「ゼータ」であり、富野監督だったんだと、今になってわかる。
●不幸な「名作の続編」
この国のサブ・カルチャー史を塗り替えたエポックメイキング『機動戦士ガンダム』の直接の続編として、1985年に制作されたTVアニメーション。原作・監督はもちろん「あの」富野由悠季。前作から7年後の世界。スペースコロニー独立運動を弾圧する軍閥勢力(ティターンズ)と、それに反発する軍内の秘密結社(エゥーゴ)の抗争が再び漆黒の宇宙に戦火をもたらそうとしていた。前作の影の主役、シャア・アズナブルことクワトロ・バジーナはエゥーゴの中核としてティターンズに挑み、そして、シャアによって戦争に巻き込まれていく少年、カミーユ・ビダンは「刻(とき)の涙」を見る……
●「断念」の物語
人間同士が理解しあったり、絆を結んだりするなんて嘘臭いとは思はないだろうか。もちろん、誰だってそれが「嘘」であることくらい知っている。多くの人はそのことに子供の頃に気付く。そして、諦念を受け入れることで大人になる。だが、ほとんどの場合この諦念は、徹底した断念という形は取らず、希望というフィクションを本当は信じていないにも関らずさも信じているかのような振る舞いを身につけることで先送りされる。人間は弱く、現実を受け入れ、断念を徹底することを恐れてしまうのだろう。
だからこそ、せめて物語の中では、絵空事だろうとなんだろうと、人間同士が誤解なく理解し合う様が描かれ、人と人とのつながりが強調される。本当は信じていないからこそ、自分自身に言い聞かせるように人は人同士のつながりを物語に求める。
私もまた、そんな物語を必要するひとりだ。だが、その一方で、「人はわかりあえない」という徹底した断念のもつ、底の見えない谷底へ落下していくような感覚に身を任せてみたいと思うことがある。できることならば拒否したい事実、受け入れたくない現実が物語を破壊する快感を、どうしても忘れられないのだ。この「ゼータガンダム」という物語は、そんな快感を与えてくれる。
迷いの中に立ち、道化を演じることを強いられるシャア・アズナブルの苛立ち。最後まで女であることを拒否して死んでいくエマと、女でありすぎたために彼女と刺し違えるレコア・ロンド。少女の不安定さを抱えたまま、女の業を背負ってしまったハマーン・カーンの妄執。そんな女たちを魅了し、利用することで野望を遂げ、そして最後は女たちの亡霊に報復されるパプテマス・シロッコ。そして人びとの絶望の全てを引き受けてようとして、やがては発狂していく主人公、カミーユ・ビダン。彼等はお世辞にも美しく生きた人々とは言えない。むしろその逆で、自らの手で自らの生き方を縛り、そして互いに殺しあって死んでいった人びとだ。彼等の殺しあう宇宙の漆黒は、吐き出される人びとの情念によって朱く汚されていく。シロッコが語るように、その人びとの感情がナマでぶつかりあう姿は、ひどく不自由で、そして醜い。だが、その不自由さが、醜さがこの物語の快感を支えている。あらゆる物語で描かれ、語られすぎた人と人とのつながりが、殺戮の中で崩壊していく。「ゼータ」それは断念の物語だ。中途半端な希望は要らない。
●「ゼータガンダム」を観る前に
本稿は、『機動戦士Ζガンダム』のサブ・テキストだ。あまり出来のよい作品ではないこのアニメだけど、ちょっと注意して観るだけで、ぐっと面白くなってくる。無料で閲覧できるウェブに、「ゼータ」をおもしろく見るコツをまとめておくと、きっと便利だと思う。「映画になったし、テレビ版も観てみようかな」と思っているみなさんに利用してもらえたらいいな、と思う。
『機動戦士Ζガンダム』は決して出来のいい作品ではない。まず、全体的に説明不足で、副読本抜きでは話の基本的な設定がまったく飲み込めない。脚本や演出も正直ミスが多い。けれど、あれから信じられないくらいの時間が流れた今、ときどきふとこのお世辞にも出来がいいとはいえないフィルムを見返して、そのどうしようもなく救いのない物語に、触れたくなることがある。あの頃、時代は浮かれていた。1985年、時代はどこまでも加速していくはずだった。そんな中でほとんどたったひとり、その行きつく先の袋小路を予見していたのが「ゼータ」であり、富野監督だったんだと、今になってわかる。
●不幸な「名作の続編」
この国のサブ・カルチャー史を塗り替えたエポックメイキング『機動戦士ガンダム』の直接の続編として、1985年に制作されたTVアニメーション。原作・監督はもちろん「あの」富野由悠季。前作から7年後の世界。スペースコロニー独立運動を弾圧する軍閥勢力(ティターンズ)と、それに反発する軍内の秘密結社(エゥーゴ)の抗争が再び漆黒の宇宙に戦火をもたらそうとしていた。前作の影の主役、シャア・アズナブルことクワトロ・バジーナはエゥーゴの中核としてティターンズに挑み、そして、シャアによって戦争に巻き込まれていく少年、カミーユ・ビダンは「刻(とき)の涙」を見る……
●「断念」の物語
人間同士が理解しあったり、絆を結んだりするなんて嘘臭いとは思はないだろうか。もちろん、誰だってそれが「嘘」であることくらい知っている。多くの人はそのことに子供の頃に気付く。そして、諦念を受け入れることで大人になる。だが、ほとんどの場合この諦念は、徹底した断念という形は取らず、希望というフィクションを本当は信じていないにも関らずさも信じているかのような振る舞いを身につけることで先送りされる。人間は弱く、現実を受け入れ、断念を徹底することを恐れてしまうのだろう。
だからこそ、せめて物語の中では、絵空事だろうとなんだろうと、人間同士が誤解なく理解し合う様が描かれ、人と人とのつながりが強調される。本当は信じていないからこそ、自分自身に言い聞かせるように人は人同士のつながりを物語に求める。
私もまた、そんな物語を必要するひとりだ。だが、その一方で、「人はわかりあえない」という徹底した断念のもつ、底の見えない谷底へ落下していくような感覚に身を任せてみたいと思うことがある。できることならば拒否したい事実、受け入れたくない現実が物語を破壊する快感を、どうしても忘れられないのだ。この「ゼータガンダム」という物語は、そんな快感を与えてくれる。
迷いの中に立ち、道化を演じることを強いられるシャア・アズナブルの苛立ち。最後まで女であることを拒否して死んでいくエマと、女でありすぎたために彼女と刺し違えるレコア・ロンド。少女の不安定さを抱えたまま、女の業を背負ってしまったハマーン・カーンの妄執。そんな女たちを魅了し、利用することで野望を遂げ、そして最後は女たちの亡霊に報復されるパプテマス・シロッコ。そして人びとの絶望の全てを引き受けてようとして、やがては発狂していく主人公、カミーユ・ビダン。彼等はお世辞にも美しく生きた人々とは言えない。むしろその逆で、自らの手で自らの生き方を縛り、そして互いに殺しあって死んでいった人びとだ。彼等の殺しあう宇宙の漆黒は、吐き出される人びとの情念によって朱く汚されていく。シロッコが語るように、その人びとの感情がナマでぶつかりあう姿は、ひどく不自由で、そして醜い。だが、その不自由さが、醜さがこの物語の快感を支えている。あらゆる物語で描かれ、語られすぎた人と人とのつながりが、殺戮の中で崩壊していく。「ゼータ」それは断念の物語だ。中途半端な希望は要らない。
●「ゼータガンダム」を観る前に
本稿は、『機動戦士Ζガンダム』のサブ・テキストだ。あまり出来のよい作品ではないこのアニメだけど、ちょっと注意して観るだけで、ぐっと面白くなってくる。無料で閲覧できるウェブに、「ゼータ」をおもしろく見るコツをまとめておくと、きっと便利だと思う。「映画になったし、テレビ版も観てみようかな」と思っているみなさんに利用してもらえたらいいな、と思う。
by zgundam2nd
| 2005-06-26 23:40