2005年 08月 14日
#38 レコアの気配 |
ダカールの作戦を成功させたシャアとカミーユは、アムロたちの支援でジェリドの追撃を振り切り、シャトルで宇宙へと帰還する。しかし、アーガマとの合流を急ぐふたりを待っていたものは、戦力低下中のアーガマを襲うアレキサンドリアとそのモビルスーツ隊だった。
シャアは帰還早々、メガバズーカランチャーでアレキサンドリアを狙うが、その必殺の一撃は攻撃を予測していたとしか思えないまさかの後退で回避されてしまう。
「シャアとカミーユが帰ってきたのです。わからないのですか?」
アレキサンドリアのブリッジには、ティターンズの軍服に身を包んだレコアがいた。囚われたことをきっかけにティターンズに寝返ったレコアが、シャアの存在を感知していたのだ。
敵の攻撃を切り抜けたアーガマでは、ブライトたちがシャアの帰還を祝う。しかし、カミーユはひとり、敵艦に死んだはずのレコアの存在を感じていた。
▼解説
ニュータイプという概念は、「ガンダム」シリーズを縛り付けていた鎖だった。そう、初代『ガンダム』で少年兵のアムロがエースとして急成長する不自然を説明するために導入された設定であり、最終的には『ガンダム』のSFとしての側面を大きく負うことになった「ニュータイプ」という概念は、これに固執するオールドファン、アニメ誌関係者、そして富野監督自身の心を縛り付ける「重力」だったのだと思う。
この概念に引っ張られて、「アニメ新世紀宣言」で君たちこそニュータイプだとアジられたオールドファン達は、手のひらを返したようにシビアな「現実」を見せる『ゼータガンダム』に等身大の自分の矮小さを突きつけられるような不快感を覚えずにはいられなかったし、アニメ誌のスタッフたちにしても「ガンダム」の続編は「ニュータイプ」論の新たな展開を見せるべきだ、と思っていた節がある。富野以下の送り手に関しても、「ニュータイプ」をどう扱っていいかわからずに、戸惑っていたように思える。
「~しなければらなない」という固執はオールドタイプの弊害らしいが、当時の「ゼータガンダム」をめぐる状況は「ニュータイプ」という言葉に縛られることでむしろ硬直化していたのだ。
この38話はおそらく「ニュータイプ」が初代「ガンダム」で描かれていたような「人の認識力の拡大」として表現されている最後の回である。以降、終盤に向かう物語では、結果としてニュータイプは霊能力者のように描かれることになった。そして、次世代のニュータイプとして描かれるかに思われたカミーユは、結局「ララァの子どもたち」のひとりに帰結した。それは多くの論者が指摘するように、「ガンダム」シリーズが「ニュータイプ」というSF的なテーマを放棄した瞬間だった。
だが、こういう結果に終わったからこそ、「ゼータガンダム」はありふれた80年代SF寓話としてではなく、「現実認知の物語」として希少な存在になり得たのだと思う。私達が今生きている、この地点でのリアリティを保つためには、ニュータイプという概念はむしろ邪魔だったのではないだろうか。たしかに、お陰で終盤はほとんどサイキック・ウォーズの様相を呈してしまうのだが、テーマのレベルに絞って考えるなら「ニュータイプ」が正しく描かれなかったからこそ、私達は20年たった今でもこの出来の悪いフィルムから豊かなものを享受することができるのだ。この38話でのシャアの言葉を借りるなら、「そういう意味では、たしかに宇宙に希望はあったのだ」。
シャアは帰還早々、メガバズーカランチャーでアレキサンドリアを狙うが、その必殺の一撃は攻撃を予測していたとしか思えないまさかの後退で回避されてしまう。
「シャアとカミーユが帰ってきたのです。わからないのですか?」
アレキサンドリアのブリッジには、ティターンズの軍服に身を包んだレコアがいた。囚われたことをきっかけにティターンズに寝返ったレコアが、シャアの存在を感知していたのだ。
敵の攻撃を切り抜けたアーガマでは、ブライトたちがシャアの帰還を祝う。しかし、カミーユはひとり、敵艦に死んだはずのレコアの存在を感じていた。
▼解説
ニュータイプという概念は、「ガンダム」シリーズを縛り付けていた鎖だった。そう、初代『ガンダム』で少年兵のアムロがエースとして急成長する不自然を説明するために導入された設定であり、最終的には『ガンダム』のSFとしての側面を大きく負うことになった「ニュータイプ」という概念は、これに固執するオールドファン、アニメ誌関係者、そして富野監督自身の心を縛り付ける「重力」だったのだと思う。
この概念に引っ張られて、「アニメ新世紀宣言」で君たちこそニュータイプだとアジられたオールドファン達は、手のひらを返したようにシビアな「現実」を見せる『ゼータガンダム』に等身大の自分の矮小さを突きつけられるような不快感を覚えずにはいられなかったし、アニメ誌のスタッフたちにしても「ガンダム」の続編は「ニュータイプ」論の新たな展開を見せるべきだ、と思っていた節がある。富野以下の送り手に関しても、「ニュータイプ」をどう扱っていいかわからずに、戸惑っていたように思える。
「~しなければらなない」という固執はオールドタイプの弊害らしいが、当時の「ゼータガンダム」をめぐる状況は「ニュータイプ」という言葉に縛られることでむしろ硬直化していたのだ。
この38話はおそらく「ニュータイプ」が初代「ガンダム」で描かれていたような「人の認識力の拡大」として表現されている最後の回である。以降、終盤に向かう物語では、結果としてニュータイプは霊能力者のように描かれることになった。そして、次世代のニュータイプとして描かれるかに思われたカミーユは、結局「ララァの子どもたち」のひとりに帰結した。それは多くの論者が指摘するように、「ガンダム」シリーズが「ニュータイプ」というSF的なテーマを放棄した瞬間だった。
だが、こういう結果に終わったからこそ、「ゼータガンダム」はありふれた80年代SF寓話としてではなく、「現実認知の物語」として希少な存在になり得たのだと思う。私達が今生きている、この地点でのリアリティを保つためには、ニュータイプという概念はむしろ邪魔だったのではないだろうか。たしかに、お陰で終盤はほとんどサイキック・ウォーズの様相を呈してしまうのだが、テーマのレベルに絞って考えるなら「ニュータイプ」が正しく描かれなかったからこそ、私達は20年たった今でもこの出来の悪いフィルムから豊かなものを享受することができるのだ。この38話でのシャアの言葉を借りるなら、「そういう意味では、たしかに宇宙に希望はあったのだ」。
by zgundam2nd
| 2005-08-14 16:58