2005年 08月 29日
#48 ロザミアの中で |
コロニーレーザーを奪取されたハマーンは、その報復にアクシズをエゥーゴ派の月都市・グラナダへ落とそうとする。アクシズのコースを変えるために、アーガマが急行。爆破作戦を実行するが、そこにティターンズのバスク大佐がニュータイプ部隊で強襲をかける。その主力はロザミアの駆るサイコガンダムマークⅡだ。迎撃に出るカミーユたちは、アクシズの居住区でロザミアと再会する。ロザミアは相変わらず何も覚えていなかったが、彼女にフォウを重ね合わせるカミーユは必死に言葉を投げかける。だが、結局はロザミアは強化人間の宿命から逃れられず、混乱したままサイコガンダムのコクピットに戻り、アーガマへ突撃していく。
「かわいそうだが、直撃させる!」……もはやロザミアを苦しみから解放するには殺すしかないと判断したカミーユは、そしてサイコ・ガンダムのコクピットを撃ち抜く。
アクシズは無事進路を変え、グラナダは救われた。
だが、結局ロザミアを殺してしまったカミーユは、ひとり苦笑するしかなかった。
「できることと言えば、人殺しだけみたいだな……」
一方、そのロザミアを発進させたバスクは、シロッコの裏切りによって宇宙の藻屑と散っていった。ティターンズはこれで事実上シロッコの手におち、戦局は最終決戦へと向かっていくのだった。
▼解説
「ニュータイプにできることと言えば、人殺しだけみたいだな」……ファースト「ガンダム」が示したほのかな希望を全否定するカミーユのこの言葉こそ、『ゼータガンダム』の結末を暗示するものであり、かつこの「現実認知」の物語を象徴する台詞だと言えるだろう。
改めて語るが、ロザミア・バダムをめぐる物語には本当に救いがない。それは彼女が非業の死を遂げるからでも、カミーユが彼女を救えないからでもない。「かわいそうな女の子」の物語は、むしろ男の子が女の子を救えないことでこそ、「美しい悲劇」として完結し、その半ば男性本位で身勝手なロマンティシズムを温存する。だが、ロザミアの死がもたらしたものは、むしろ底なしの絶望感だ。この絶望は、「せめてあなたにだけは」という最近流行の共存症的なロマンティシズムさえ、身も蓋もない現実をつきつけて破壊してしまう。
そう、ロザミアはたとえカミーユが「お兄ちゃん」として機能したとしても到底幸せにはなれない。それどころか、カミーユを「お兄ちゃん」として慕う感情(=「かわいそうな女の子を救う」という物語)そのものが、この場合軍によって植えつけられたものにすぎないのだ。「ボク」と「キミ」でセカイが完結する「悲劇的であるが故に幸福な揺りかご」を、ロザミア・バダムと言う少女(?)の死は跡形もなく粉砕する。
「かわいそうだが、直撃させる!」……もはやロザミアを苦しみから解放するには殺すしかないと判断したカミーユは、そしてサイコ・ガンダムのコクピットを撃ち抜く。
アクシズは無事進路を変え、グラナダは救われた。
だが、結局ロザミアを殺してしまったカミーユは、ひとり苦笑するしかなかった。
「できることと言えば、人殺しだけみたいだな……」
一方、そのロザミアを発進させたバスクは、シロッコの裏切りによって宇宙の藻屑と散っていった。ティターンズはこれで事実上シロッコの手におち、戦局は最終決戦へと向かっていくのだった。
▼解説
「ニュータイプにできることと言えば、人殺しだけみたいだな」……ファースト「ガンダム」が示したほのかな希望を全否定するカミーユのこの言葉こそ、『ゼータガンダム』の結末を暗示するものであり、かつこの「現実認知」の物語を象徴する台詞だと言えるだろう。
改めて語るが、ロザミア・バダムをめぐる物語には本当に救いがない。それは彼女が非業の死を遂げるからでも、カミーユが彼女を救えないからでもない。「かわいそうな女の子」の物語は、むしろ男の子が女の子を救えないことでこそ、「美しい悲劇」として完結し、その半ば男性本位で身勝手なロマンティシズムを温存する。だが、ロザミアの死がもたらしたものは、むしろ底なしの絶望感だ。この絶望は、「せめてあなたにだけは」という最近流行の共存症的なロマンティシズムさえ、身も蓋もない現実をつきつけて破壊してしまう。
そう、ロザミアはたとえカミーユが「お兄ちゃん」として機能したとしても到底幸せにはなれない。それどころか、カミーユを「お兄ちゃん」として慕う感情(=「かわいそうな女の子を救う」という物語)そのものが、この場合軍によって植えつけられたものにすぎないのだ。「ボク」と「キミ」でセカイが完結する「悲劇的であるが故に幸福な揺りかご」を、ロザミア・バダムと言う少女(?)の死は跡形もなく粉砕する。
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by zgundam2nd
| 2005-08-29 23:21