2005年 08月 26日
#45 天から来るもの |
ハマーンは自分達の本拠地、小惑星要塞アクシズそのものを巨大な弾丸とし、ティターンズの宇宙要塞ゼダンの門にぶつける作戦を実行する。ハマーと同盟するエゥーゴは、ゼダンの門から脱出する艦隊を叩くべく出撃する。そんな戦闘の最中、サラはまたしてもアーガマからまんまと脱出し、カミーユとファは戦場でレコアと再会する。どうしてもサラを撃てないカツと、レコアを撃てないファ。そんなファを戦闘中にかばって、歴戦の勇者・アポリーが戦死する。
アクシズはゼダンの門を砕き、ティターンズは最大の本拠地と多くの戦力を失った。しかし、勝利したはずのアーガマの艦内では、アポリーの死とレコアを撃てなかったことを悔やむファが沈み込んでいた。
▼解説
「私は今、女としてとても充足しているの」とか「女ってそういうもの」とかフェミニストが聞いたら激怒しそうな台詞が満載の第45話の見所は、当然再び対峙するファとレコアの関係だ。
レコアはメタスの先任パイロットとして、ファを直接指導してきた存在だ。そのレコアがこの回ではファに「女の幸せ」について懇々と説く。「私は主義者ではないわ」と語るレコアは、自分を充足させてくれる男を得ることこそが女の幸せだと考えていて、そしてなんと女性とは本質的に「そういうものだ」と言い聞かせる。
この直後に、ファがレコアを撃てなかったのは、昔の思い出が邪魔したからではない。ファはレコアの主張に、なんと半ば以上共感しているのだ。だからファはレコアを見逃し、結果的にアポリーを死なせてしまっている。だが、作戦後、ファの口から漏れるのはアポリーの死を悼む言葉ではなく、レコアへの共感を漏らす言葉だった。当然、レコアと対の存在であるエマはこれに反発するのだが、どうやらこの勝負はレコアの勝ちのように思える。『ゼータガンダム』以降のファの生き方を見る限り、どうやらファはエマよりもレコアに倣って生きる道を選んだようなのだ。
これがどういうことかというと、「女」であるために自ら破滅の道を歩むレコアと、やがて作中で都合よく母性のアイコンとなっていくファの歩んだ道と言うのは、途中までは一緒だったということである。
レコアとファの分岐点はどこにあったか? 同じように自分の(主にオトコ関係の)感情を優先して生きるふたりだが、レコアのそれは自分が他者(男)に依存したいという欲望であり、ファのそれは自分の中に相手を取り込んでしまいたいという欲望だ。
このふたつの「女性」の有り様は後に富野作品の重要なモチーフになっていく。それは『逆襲のシャア』小説版(『ベルトーチカ・チルドレン』)におけるクエスとベルトーチカの対立であり、そして富野由悠季最大の問題作『機動戦士Vガンダム』におけるカテジナとシャクティ(そしてウッソの前に次々と現れる「お姉さん」たち)の対立でもある。
ここでは深くは突っ込まないが、同作は後者が胡散臭く、おぞましいものとされながらも「聖母」として描かれる一方、その欺瞞を告発するように前者の立場に立つカテジナが「お姉さんたち」をブチ殺しまくる(でも結局最後は負けていく)物語なのだ。
アクシズはゼダンの門を砕き、ティターンズは最大の本拠地と多くの戦力を失った。しかし、勝利したはずのアーガマの艦内では、アポリーの死とレコアを撃てなかったことを悔やむファが沈み込んでいた。
▼解説
「私は今、女としてとても充足しているの」とか「女ってそういうもの」とかフェミニストが聞いたら激怒しそうな台詞が満載の第45話の見所は、当然再び対峙するファとレコアの関係だ。
レコアはメタスの先任パイロットとして、ファを直接指導してきた存在だ。そのレコアがこの回ではファに「女の幸せ」について懇々と説く。「私は主義者ではないわ」と語るレコアは、自分を充足させてくれる男を得ることこそが女の幸せだと考えていて、そしてなんと女性とは本質的に「そういうものだ」と言い聞かせる。
この直後に、ファがレコアを撃てなかったのは、昔の思い出が邪魔したからではない。ファはレコアの主張に、なんと半ば以上共感しているのだ。だからファはレコアを見逃し、結果的にアポリーを死なせてしまっている。だが、作戦後、ファの口から漏れるのはアポリーの死を悼む言葉ではなく、レコアへの共感を漏らす言葉だった。当然、レコアと対の存在であるエマはこれに反発するのだが、どうやらこの勝負はレコアの勝ちのように思える。『ゼータガンダム』以降のファの生き方を見る限り、どうやらファはエマよりもレコアに倣って生きる道を選んだようなのだ。
これがどういうことかというと、「女」であるために自ら破滅の道を歩むレコアと、やがて作中で都合よく母性のアイコンとなっていくファの歩んだ道と言うのは、途中までは一緒だったということである。
レコアとファの分岐点はどこにあったか? 同じように自分の(主にオトコ関係の)感情を優先して生きるふたりだが、レコアのそれは自分が他者(男)に依存したいという欲望であり、ファのそれは自分の中に相手を取り込んでしまいたいという欲望だ。
このふたつの「女性」の有り様は後に富野作品の重要なモチーフになっていく。それは『逆襲のシャア』小説版(『ベルトーチカ・チルドレン』)におけるクエスとベルトーチカの対立であり、そして富野由悠季最大の問題作『機動戦士Vガンダム』におけるカテジナとシャクティ(そしてウッソの前に次々と現れる「お姉さん」たち)の対立でもある。
ここでは深くは突っ込まないが、同作は後者が胡散臭く、おぞましいものとされながらも「聖母」として描かれる一方、その欺瞞を告発するように前者の立場に立つカテジナが「お姉さんたち」をブチ殺しまくる(でも結局最後は負けていく)物語なのだ。
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by zgundam2nd
| 2005-08-26 00:05